人はポストモダンに行き詰まると極端なリバタリアン化&ネトウヨ・オルタナ右翼になる

はてなブクマで、こんな記事がホットエントリーに入っていた。

Mal d’archive オルタナ右翼の源流ニック・ランドと新反動主義
http://toshinoukyouko.hatenablog.com/entry/2018/08/24/230418



イギリスの哲学者ニック・ランド(Nick Land)は、2012年、ネット上に「暗黒啓蒙(The Dark Enlightenment)」*1というテキストを発表し、新反動主義(Neoreaction:NRx )の主要人物の一人になった。詳しくは後述するが、この新反動主義のエッセンスがオルタナ右翼の中にも流れ込んでいるとされている。そのもっとも直截な例は、オルタナ右翼系メディア『ブライトバート』(Breitbart)の元会長であり、またドナルド・トランプの元側近でもあるスティーブ・バノンで、彼は「暗黒啓蒙」のファンであったことを公言している*2。



ニック・ランドは、もともと大陸哲学とフランス現代思想の研究からスタートしており、初期にはジョルジュ・バタイユに関する著書もあるが、90年代中頃になると、のちに「加速主義(accelerationism)」と呼ばれることになる思想を展開するようになる。加速主義とは、ざっくり言えば、資本主義のプロセスを際限なく加速させることで、あらゆる既存の体制や価値観を転倒させる技術的特異点=シンギュラリティを志向する思想的立場を指す。
 


この思想は、フランスの現代思想ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリによる共著『アンチ・オイディプス』から多大な影響を受けている。1972年、パリの五月革命の余韻醒めやらぬなか書かれたこの大著は、「資本主義と分裂症」という副題が付されているが、その中で「脱領土化」という概念が出てくる。これは一言でいえば「解体」のプロセスであり、土地や貨幣がグローバルに流動化していく資本主義、そして自我が解体していく分裂症患者に見られるプロセスであるとされる。ただし、『アンチ・オイディプス』では、これと対になる「再領土化」という、その後に来る「統合」のプロセスとワンセットになっているのだが、加速主義は前者の「脱領土化」のプロセスのみを徹底的に――特異点に至るまで――推し進めようという立場である。この点において、加速主義はドゥルーズガタリの思想とは一線を画している*3。



ニック・ランドの積極的ニヒリズム(?)にはこれ以外にも、エントロピー理論における「熱的死」、フロイトの「死の欲動」、アントナン・アルトーの「器官なき身体」など、いくつもの概念が折り重ねられているのだが、その根底には苛烈な人間中心主義批判の精神がある。
人間中心主義批判も現代思想における重要なテーマで、その系譜はたとえば人類学者レヴィ=ストロースの「世界は人間なしに始まったし、人間なしに終わるだろう」という有名なフレーズにまで遡ることができるかもしれないが*5、ここでは深入りは避ける。いずれにせよ、ランドはこの人間中心主義批判のエートスを、「人間」の廃絶にまで推し進めようとする。ランドは、人間性を保守しようするあらゆる既存の体制、価値観、思想、社会を一括して「ヒューマン・セキュリティ・システム」と呼び、そこからの脱出を促そうとする。 この「ヒューマン・セキュリティ・システム」の内部に安住している限り、我々は自分たちを縛っている思考の「外部」へ突破することはできない。ランドにとって「外部」という、いわば思考しえないものを思考しようとする試みは、端的にいえば「人間をやめる」ことによってのみ達成されるのだ。



一般に右翼思想といえば、自分たちの住む国家を尊ぶ愛国思想(ナショナリズム)や保守思想と同一視されているが、新反動主義はその点からすると真逆のようにも見える。というのも、そこで主張される思想は、国家の解体と企業化であり、また住民は積極的に別の都市国家=企業に流動していくことが推奨されているからだ。
複数の州政府から成る連邦制を敷いているアメリカにおいては、国家に対する意識も日本などの国とはだいぶ差がある。だから、インターネットの右翼思想といえば、いわゆる日本のネット右翼などのイメージしかない向きからすると、これはだいぶ異様な思想に見える。とはいえ、実際これはだいぶ異様な思想なのだが*19。



オルタナ右翼界隈ではしばしば「社会的生物多様性」(human biodiversity:HBD)なる議論が持ち出される*21。「社会的生物多様性」という概念は、集団遺伝学(population genetics)の分野では既に90年代頃から現れていたが、2010年代に入るとインターネット上の白人至上主義者やオルタナ右翼のコミュニティで用いられるようになった。「社会的生物多様性」をインターネット上に復権させたのは、スティーブ・セーラー(Steve Sailer)というジャーナリスト兼ブロガーで、彼は以前からオルタナ右翼系のメディアで論陣を張っていた。なお、集団遺伝学とは、とある集団内における遺伝子構成の変化を研究する遺伝学の一分野。この遺伝学を、特定の人種、階級、地域、共同体に適用させようというのがセーラー流の「社会的生物多様性」の議論だ。
これがどうしてレイシズムに繋がるのかというと、特定の人種(たとえば黒人)や階級(たとえば労働階級)は遺伝的に能力があらかじめ決定されているという議論を招くからで、要は人種差別=優生学を正当化するために疑似科学的な意匠が凝らされたネオ・社会ダーウィニズムに過ぎない。



たとえば、近年における哲学的潮流のひとつである思弁的実在論(Speculative Realism:SR)。
思弁的実在論とは、一言でいえば、哲学を脱―人間中心化しようとする動きであり、事物そのものの在りようを、人間の認識に依存しない形で問題にしようとする哲学である、とひとまずはまとめることができる。この思弁的実在論という枠組みは、2007年にロンドン大学ゴールドスミス・カレッジで開かれた同名のワークショップを発端にしており、そこに集ったレイ・ブラシエ、イアン・ハミルトン・グラント、カンタン・メイヤスー、グレアム・ハーマンの四人が、思弁的実在論のオリジナルメンバーということになっている。そして、このワークショップの書き起こしがネット上に無料公開されると、主にブロガーたちの間で話題と論争を生み、思弁的実在論は一種のネット・サブカルチャーと化した*24。


思想に暗いので、詳しいことはよくわからないが、自分が青識亜論や籠原スナヲのようなポストモダン崩れに思った違和感が、上手く説明されているように感じた。また「シンギュラリティー」の元ネタが、オルタナ右翼とも通じる思想にあったのも、やはりという感じである。政治よりも市場を絶対視する立場も、最近の日本のサブカル評論界隈が、欧米のオルタナ右翼とも思想的に連動しているのを示しているだろう。


だけど、たいして語学力もない日本の人文思想系が、欧米のオルタナ右翼思想に先んじていたことは、検証に値することかもしれない。ブログ先で言及されている、ニック・ランドの「暗黒啓蒙(2012年)」以前から、既に日本の思想界は“暗黒啓蒙”と化していた。東浩紀大塚英志との対談で、「南京大虐殺をあったなかったと議論することに意味はない」と発言している、『リアルのゆくえ』が出版されたのが、2008年である。それに、日本で思弁的実在論とか言っている連中も、だいたいポストモダン崩れのリバタリアンネトウヨである。


おそらく冷戦終結以降のグローバル資本主義とインターネットが、世界をネトウヨだらけにしたと言ってよいと思うのだが、その中でも、いち早く長期不況と政治不信に直撃した日本は、どこよりも先んじてネトウヨ化したわけである。そういう意味で、日本はネトウヨの母国といっても過言ではない。実際に、4chanなどは2ちゃんから多大な影響を受けているわけだし、オルタナ右翼は排外的な日本を理想化している。


最近のネット民の傾向は、ネトウヨから冷めて次の冷笑モードに移行している感じがするけど、逆に割と素直で意識高めの人の方が、ネトウヨ的なものに感染しつつある感じがする。悪い意味での誤配が起こっているというか、ネトウヨ的なものを見抜くリテラシーがないから、そういうものに感染しやすい状況があるんじゃないかと思う。


それと『君の名は。』と『この世界の片隅に』に、マイルドなネトウヨ性を見出している人がいたけど、たしかに『シン・ゴジラ』を加えたこの3作が、震災以降の反動主義だというのも、わからなくなくはない。社会の前向き性が、現実認知を歪めているってのはあると思う。しかも、ニヒリストほど自覚的でなく、本人の自我も強いから余計にタチが悪いってのはあるよな。