日本のポストモダンが権力にすり寄る理由

東浩紀さん周辺や、そのフォロワーが、権力に対して従順な傾向があるのは、別に本気で左翼が憎いからではなくて、逆に社会の右傾化に怯えているからこそ、そこに乗っかろうとする心理が作動してしまうからではないかと思う。
それ自体は、吉本隆明の転向論を読むまでもなく、虚弱な日本のインテリ体質そのものだけど、しかし、その態度は、まるでナチスに哀願を乞うインテリユダヤ人とでも言うべきものに見える。


ツイッターから拾ってきた、典型的な東浩紀フォロワーの自意識サンプル例↓


話は少しズレるが、柴田英里さんの議論が特に説得力を持たないのも、弱者が苦しんでいる姿を見て喜ぶ、自身の倒錯した露悪趣味を政治的に正当化しよとするからであろう。けど、ちょっと批判されたぐらいで、いじめられたウワァァァンと言い訳する時点で、覚悟が足りないんじゃないかって思う。



※しかし「誰が」“全ての物語は現在の規範と法律に準じるべき”と言ったのかハッキリさせてもらいたいものである。


だが、あずまんやシバエリといった手合が、誰の目にも明らかな権力の実体そのものではなく、それを批判する陣営に内在する微視権力をあげつらって、重箱の隅を突くようなことばかりをやっているのは、それが彼らの思考のクセとして脳に染み付いているからだけでなく、自分らを支持する知的コンプレックスに飢えた信者を取り付けるためのポジショニング戦略でもあるからだろう。
けど、ゲンロン界隈の一般信徒や、一般の批評読者をも込みで言うけど、やっていることは、RPGでラスボスを倒す前に、裏ボスを攻略していきがっている小学生みたいなもんだよね。その“目に見える実体そのものではなく、その裏側にある不可視なものにこそ真の実体がある”的な、日本のポストモダニストの思想的傾向は、ポストモダンというよりか古典的ロマン主義への退行ではないかって気もするけど。


とか何とか言っているうちに、不可触賤民や穢多非人の存在を覆い隠して、無自覚にインドと身分制度を称賛する落合陽一や、ネオリベ自己啓発ビジネス戦略を展開する宇野常寛古市憲寿みたいなものに、批評や思想はいつの間にか簒奪されていったのである。
特に日本のサブカル論壇って、3.11とフクイチ原発事故のショック以後、党派を越えてみんな痴呆化した気がするけど、でもその敗北を否定したい心理っていうか、裏打ちのない希望を煽る言論や、クールジャパニズム的な精神的勝利論法でもって焚きつける批評で溢れかえってしまった気がするのは、こちらの考え過ぎなんだろうか?


まあ、批評や思想なんてものは、所詮、時代の実存的不安を癒やすためのデパスでしかないことを、今更改めて批判する気力もないし、そのままエビデンス厨に真綿で締め付けられるように苦しんで死ねばいいと思うけど。