ギロチン

F@CK ポストモダン

オレのアニメを見る気分を邪魔する”活動家”は許さんぞ!!イェ~イ!スパンキング!!スパンキング!!

自分の中でオタクという存在が、開放というよりも抑圧の象徴へと変わってしてしまった。


まあ、そういうプレッシャー自体は、別に悪く言った憶えはないのに、アニメ系評論の人たちにブロックされまくったり、レイシズムに対して冷笑的な態度をとるオタクが圧倒的多数だったことに気付いた時から、ずっと抑えてきたものだった。


しかし、もうどでもいいやというか、自分と彼らとでは1千億光年離れた存在なのだから、気にするのもよそうと思うようになった。無論、繰り返し叩きまくっているサブカル人文系については言うまでもない。


例えば、某誌ですぱんくTheはにー氏が、「ぼくたちを分断する”活動家”(多分、主に左派系)」を批判して、それを超克するものとしての、ゆるキャン△的な相手と適度に距離を置きながらの緩い承認の可能性を持ち出していた。


けど、氏の論調って、結局安倍政権的なゆるさを装いつつも、(臭いものには蓋をしながら)真綿で首を絞めつけてくるような全体主義をシニカルに追認するものでしかないんじゃん?と、怒りのツッコミを思わず入れたくなってしまった。


あと左右を問わない「活動家」と、名指ししている割に、ネット・ポピュリズム的な左派叩きに同調している感じがしたし、そうでなくても、ネトウヨ活動家による「分断」なんて、震災以前からあった話だ。


別に作品に罪はないけど、でもゆるキャン△ですら、こうした人のシニカル(でしかない)気分を肯定する、踏み台にしかならないんだろう。この何かを意図的に口塞ごうとする嫌な感じって、君の名は。や、この世界の片隅になどにもあったものだ。


また、この手のスノッブなアニメ批評周辺のバックボーンにあるのは、ゼロ年代批評やゲンロン経由のシニシズムだろう。すぱんく氏も、論考の中で、今さらあずまんの本なんかを引用していた。


それ以外でもショックだったのは、アニメ化が中止された某ネトウヨなろう小説に関して、リベラルなアニメ評論周辺の反応が薄かったことだ。


まるで他人事みたいな感じったし、「オーバーキルだ!」と嘆いていた人もいた。それを見てガッカリしたし、ああこいつらにはプライドがないんだなと思った。いくらオタクシーンがネトウヨに蝕まれつるあるからって、それに伺い立てる必要はない。いくら言い訳を重ねようと、オタクが醜悪なネトウヨカルチャーに簒奪された案件なんだから、もっと直截的に怒るべきなのである。


すぱんく氏の話に戻ると、あの論考で一番イラッときたのは、震災や福島第一原発事故の問題を、人と人との分かりえなさや、個人の分断の問題に挿げ替えていたことである。


だが、震災以降、この国のシステムの杜撰さや支配者層の横暴が、さらに表面化しただけなのであって、我々の内なる分断やディスコミュニケーションではない(これ自体はバブル崩壊以後、いやそれ以前からゆっくりと進行していたものだ)。


しかもその責任を、半ば「活動家」に押し付けているのも含めて、二重にタチが悪い。反面、オフビートなゆるキャン△的日常性を称えているんだけど、でもオタクに限らず震災の経験とそれに対する言い訳が、弛緩した国民病的シニシズムを肯定するための方便になっているのかもしれない。


だから、結局、氏にとってのゆるキャン△とは、ある種の絶望と諦念の裏返しとしての、なし崩し的な現状肯定でしかないんだろう。


たしかに、虚構を信じる勇気は決して否定するもんじゃないけど、でも今の時代それだけだと脆い感じは拭えない。スノッブなオタクシーンの間で見られる、ネトウヨとすら分かり合おうとするニヒルな気分が、虚構を信じていくことを躊躇わせる。


その点、なろう小説の方が、虚構に対してもっと冷めた態度ではないかと思う。まともに読んだはないけど、『このすば』みたいな異世界転生もののなろう小説は、己の欲望を自虐的に切り刻み自己言及していく、一種のメタ私小説的な構造を持っているものが多い気がする。


それと、最近の実写ドラマの傾向を見ても諦念と冷笑ではなく、現実の政治問題を直視する内容も増えてきている。その流れはまだ弱いと思うけど、しかし00年代的な、冷笑サブカルから離脱しつつある兆しが見える。その動きが強まれば、オタク的なファンタジーも揺らいでくるんじゃないだろうか。


オタクが、政治性を切断処理してユートピアを夢想するのは自由だけど、それでも、政治は我々の前に忍び寄ってくる。そこで、「ぼくたち」を分断する「活動家」から身を護るために、ゆるキャン△的な他愛のない共同性を持ち出すのはキツい。時には活動家「的」な、戦い方をしなければならない局面もきっとあるのだ。


しかも、いくらゆるキャン△を盾にしても、震災と原発事故によって、二度と戻らない日常やコミュニティを破壊された人々が、現実に何十万人と存在する。


だけど、震災発生直後に一番アクションを起こしていたのは、それこそ氏が忌み嫌う活動家タイプの人たちだった。むしろ、震災にコミットしてきた活動家を嗤い者にして、積極的に分断と対立を煽ったてきたのが、ネットのオタクだったんじゃないだろうか。オタクほど震災という「ネタ」を、メタ目線から茶化しながらネタ消費してきた存在もいないであろう。


なので、すぱんく氏も、自己反省パフォーマンスを織り込みつつ、その責任を全て他人になすり付けることで、自らを免罪しているようにしか見えない。


しかし、そうやって左派や社会派をスケープゴートにすることで、自分を政治的に免罪する手法が、インテリオタクたちの間で流行っているんだろう。だから、オタクや人文系に愛想を尽かしたのだけど。まあ、頭のいいインテリは、そこはかとなくそれを演じてしまう分、ネトウヨよりタチが悪い面がある。


結局、なれ合いや分かり合うとするほど、めぐりめぐって分断と相互不信を生むし、語るべきことを語らずに黙ってしまえば、より対立は先鋭化する。氏の乙女チックな関係性コンプレックスの方が、むしろ他者を粉々に分断するのだ。


いいかげん、それに気づくべきだと思うんだけど、別にこちらの意図を分かって欲しいなんていう傲慢な思いはない。でも、アニメを言い訳のダシに使うなよ。だけど、もしすぱんく氏がこれを読んで、僕のことを「死ね」と思ってくれたなら、これ以上幸いなことはない。