「正義の暴走」を左派だけに適用して、ネトウヨの権利を擁護してきたポストモダン

日本のポストモダンは「正義の暴走」という決め台詞をよく好むが、しかし、何故かそれを左派ばかりに適用して、ネトウヨがヘイトする権利は擁護してきた経緯があると思う。


これだけで、日本のポストモダンが決して政治的な中立勢力ではなく、ネトウヨの衛星勢力だったことを証していると思うが、だが左派さえ叩けば、とりあえず自分は政治的に免罪されるかのような空気感が、つい最近まであったように思う。それも、metoo以後や左右の政治的バランスが崩れつつあるなかで、通じなくなってきているようだが。


だが、最近でもジル・ドゥルーズの欲望概念を持ち出して、ネトウヨや右翼の欲望は「正しい欲望」で、左派やリベラルは、フェミニズムジェンダーフリーを装ってエロや女性を抑圧する「欲望の抑圧者」的な、印象操作を拡散するポストモダニストがいるらしいけど、それこそ、まさに欲望概念の恣意的な線引きでしかなく、欧米におけるオルタナ右翼的なホモフォビアや多様性の憎悪に通じるものでしかないだろう。


まあ、今日の日本においてドゥルーズデリダを好んで読む輩なんて、100%ネトウヨレイシストだろうから、別に説得する気はないけど、だが、未だに日本におけるポストモダンは、こういったレイシストに簒奪されたままなのだろうし、それはとても不幸な話であると思う。ポストモダニストが描いていた戦略は、ネトウヨを適切に無害化した上で、リベラル殲滅のための駒に組み込むことだったのであろうが、逆に彼ら自身がネトウヨの一部だったのである。


だけど、在日韓国朝鮮人やマイノリティに「死ね」という欲望は<<自由市場主義>>的に正しくて、それを阻止したいという「欲望」は、自由主義社会を破壊する<<抑圧>>であるという、線引きの根拠はどこにあるんだろうか? リベラル左派的な(ポストモダニストから見て)禁欲的な倫理道徳観に対して、欲望概念を絶対的な価値基準にした瞬間に、またそれも抑圧的なドグマに転倒するのである。むしろ、「欲望的であれ」ということを強いられているのが問題なのだ。


以上については、繰り返し言っている気がするんだけど、でもどうせポストモダンの輩は、これからも自分たちを都合よく政治的に免罪していくんだろう。しかし、欲望概念を思想理論的に囲い込んだ瞬間にイデオロギー化するわけだし、それをあたかも普遍的であるかのように偽装するのは、あまりにも虫のよい話である。