ゼロ年代批評はレイシズムとどう向き合ってきたか?


本日 (6月3日) ヘイトスピーチ法が施行された。本法が主に与党案を叩き台にして纏められた理念法であり具体的な罰則規定がないことや、表現の自由の問題、また刑訴法の改悪などの不安事項が重なったこともあってか、法制化の先頭に立った当事者とその関係者以外から、必ずしも支持されてないのは分かる。しかし、それまでネット内外を問わずに、野放し状態だったヘイトスピーチレイシズムを抑止する第一歩として評価してよいのではないだろうか。


さて、ここで本題に入りたいと思うが、ネット上の流行りでしかなかった嫌韓ブームから、ヘイトスピーチが社会問題化するまでに、はてなSNSなどでの反応、またネット言論に多大な影響力を与えたゼロ年代批評は、どのようにレイシズムを見てきたのか探りたいと思う。


ゼロ年代批評」 とだけ言っても大雑把に聞こえてしまうかもしれないが、ここではゼロ年代批評の主要人物である東浩紀宇野常寛を中心としたグループ、またそれに影響を受けたブログやネット論壇、その読者たちのことを指している。


まず、中国文学者の福嶋亮大はどう考えたか? 震災前の2010年のツイートであるが、在特会のメンバーによる京都朝鮮第一初級学校襲撃事件に関してこう述べている。先に断っておくが、以下のスクショは、当該ツイートが削除済みであったので、福嶋のtwilogから在特会と検索して拾ってきたものだ。



当時は、今よりもネトウヨ在特会を批判するリベラルへの風当たりが強かったとはいえ、在特会による朝鮮学校襲撃事件は、明らかに誰の目から見ても、マイノリティに対するいき過ぎた暴力行為に見えたと思われる。



以上の動画を見てもらえば、福嶋がどのような文脈でいったにせよ (2010年当時からしても) 無知蒙昧で不見識な発言だったか理解できるだろう。しかし、福嶋は後にこのように釈明している。




福嶋は自著の 『復興文化論』 で、江戸時代以降の徹底的な宗教の締めつけによる、脱宗教化と世俗化によって完成された日本の特徴として、日本人の信仰や政治に対する冷笑的な態度を指して、それを 「冷たい個人主義*1と評していた。


だが、 「京都朝鮮第一初級学校は(問題の公園も含めて)実際見たことがあるけれど、はっきり言ってボロいし小さいし、また公園そのものも凄く狭いものなのね。負担のかかる生徒も出てくるかもしれないけど、新校舎統合はむしろ現実的なんじゃない?在特会の脅し云々って話だけじゃないと思う。」 という発言をみても、自意識過剰な日本のインテリらしい “冷たい個人主義” である。


だけど、「僕は在特会が言っていることが100%間違っているとは思わないし」 「それこそ語り口の「制御」次第では適切な問題提起になりえるかもしれないけど」 って、どこをどう制御すれば在特会の語り口が適切な問題提起になりえるのか知りたいものである。


いずれにせよ、2010年当時はまだこのレベルだったし、この当時の福嶋の一連のツイートは、在特会よりもそれを批判する、リベラルの内なる暴力性こそが、自己批判されなければならないかのような、ネットの空気感に迎合した発言でしかなかったのである。


師匠の東浩紀も、未だに自分が嫌いなリベラルを叩くためにネトウヨに甘い発言を繰り返しているし、当時の荻上チキも、カルデロン一家追い出しデモを取り上げたブログの中では在特会ネトウヨに対して、歯切れの悪い遠慮がちな議論しかできていなかった。


ネトウヨに対するカウンターデモが本格化する前までは、直接的にネトウヨを批判しても、逆にどっちもどっち論法的に、「ネトウヨと同質の暴力性を持つ極左みたいなレッテルが貼られるかもしれない」 という警戒心が高かったように思う。当時のネット言論空間内は、それぐらい今よりも左派の立場が悪かったんじゃないだろうか。


例えば、東浩紀が主催した批評家育成リアリティー・ショーともいえる 『ゼロアカ道場』 の優勝者、村上裕一も、ネトウヨを分析した 『ネトウヨ化する日本』 の中でこう述べている。

「私は、人を助けるためだったら人を傷つけてもよいという立場には与さない。目的が手段を正当化するという発想こそが、他者への暴力そのものなのである。もちろんそれは、人を救うことを否定しているのではない。しかしながら、人を救うというのは軽々しいことではない。それはゼロサムゲームの産物ではないのだ。私たちはその営みがどのような意味を持つのか考え続けなければならない。それは終わらない逡巡を生きるということを意味している。決断をせずに生きることは難しいが、決断の前にも決断の後にも逡巡がなくてはならない。私が文学の復活を願うのは、そのような逡巡を体験するものこそが文学だと思っているからだ。」 『ネトウヨ化する日本』p.344


いちおう断っておくが、別に本書が全然ダメとは思わなかったし、ネットとレイシズムの関係について頷ける分析も多くあったと思う。しかし、ここで問われているのは、日常に蔓延るレイシズムや歪んだナショナリズムとどう闘うかではなく、村上の中で内発するネトウヨ的心性や、ネトウヨ言論に抵抗する術もなくただ怯える、村上の自意識について自己言及しているだけに見える。*2


それは、単にネトウヨに抵抗する気がないことの言い訳でしかないのだが、それを 「逡巡する文学」 と言い換えることで、しばき隊や一般的な左翼よりも思慮深くて、何となく高次元で問題を見下ろせているかのように思わせているのである。


だが、村上がここで主張していることは、ヘイトスピーチレイシズムが日常化する中でも、それに、直接抵抗することがあってはならないという、宮台真司的な 「宙吊りの価値観」 に耐えろということであると思う。村上からしたらしばき隊のようなやり方も、ある意味ネトウヨと同質の暴力性に見えてしまうのだから。しかしそれは、ネトウヨをただ黙って見ていろと言っているだけの無意味な議論でしかないのである。


それでも福嶋や村上といったゼロ年代批評界隈は、逆にヘイトを批判すること自体の暴力性に怯え続け、その内なる暴力性こそが、ネトウヨ的なものを生み出す根源であると考え続けていた。でもそれは結果的に、レイシズムやヘイトの具体的な抑止策や議論を奪ってしまったのではないかと思うのである。このようにゼロ年代批評やその周辺の論客たちが、ヘイトに関する議論を無駄に複雑化し歪めてきたと言っても過言ではない。


例えば、宇野常寛小林よしのり萱野稔人、與那覇潤などによる対談本 『ナショナリズムの現在』 の中で、萱野は 「私は、「ネトウヨ」と言われている人たちには、真っ当なところがあると思っています。たとえば2014年の1月に神戸で不正に生活保護を受けながらポルシェに乗っていた在日韓国人が万引きで逮捕されたというニュースがありました。「Yahoo!ニュース」上でのユーザーからの反応を見ていたら、トップに来ているコメントが「なんで日本人で生活保護をもらえない人がいるのに、外国人でもらえる人がいるんだ? おかしいじゃないか!」という内容でした。(中略)ここに今の日本のナショナリズムの一つの本質があると思います。要するに、今の日本は経済が不調で、財政赤字も増えていて、このままいくと社会保障も立ちゆかなくなる。つまり「日本人がこんなに苦しんでいるのに、なんで我々日本人自身でつくりあげた福祉のパイを外国人にまであげないといけないんだ」という心情があるわけです。」*3、とかなり飛ばした発言をしている。


この萱野の発言は、単純にネトウヨを褒めているわけではないのかもしれない。だが西欧諸国で移民排撃とポピュリズム台頭の要因になっている福祉国家の機能不全の問題と、それとは歴史的背景がやや異なる日本の在日韓国人とヘイトの問題を、ごちゃ混ぜにして語るのはちょっと無神経過ぎではないだろうか。


また宇野は後書きで、「前後の文章から特定のフレーズを切り出し、悪意を以って脚色してあいつはヘイトスピーチを肯定したのだ、というまったく逆の意見を捏造して僕たちを血祭りに上げようとする動くが出てきてもまったく不思議ではない。」*4 と、宇野に批判的な左翼やリベラルから叩かれることを見越して、彼らを挑発するようなわざとらしい一言を書き入れている。


例えば 「そういうどうしようもない奴らがいる世の中は変わらないけど、その横で「彼らに負けないように俺たちは俺たちで頑張るよ」という集団をどれだけつくっていけるのかが大事なんじゃないか、と。(中略)しかし今「リベラルな人たち」って「現実と遊離した理想をソーシャルメディアに投稿している自分はロマンティストでカッコイイ」とか思っている人たちのことになってしまっている。これじゃあ、誰もついてこない。もう戦後民主主義的な、左翼的な物語は捨てて、もう少し脱物語化した、プラグマティック中間層を厚くしていくことが大事なんじゃないかというのが僕の考えなんですよ。(p.74-75)」 と、終始リベラルに対して攻撃的な調子が続く。


しかし、ネトウヨの問題を半ばリベラルのせいにしている時点であざといし(これもネット言論人がよく使うエクスキューズである)、そのくせ 「そういうどうしようもない奴らがいる世の中は変わらないけど、その横で「彼らに負けないように俺たちは俺たちで頑張るよ」という集団をどれだけつくっていけるのかが大事なんじゃないか、と。」 と、まるで自分はネトウヨとは関係ないかのような言い草である。


だが、ヘイトスピーチに直接対抗して成果を上げてきたのは、宇野が目の敵にするようなリベラル市民だったことはいうまでもないし、宇野が語る「機能しなくなった戦後的な大きな物語に代わる、文化やグローバル資本主義を動員した新しい物語」 にせよ、それがどう前時代的なリベラルの理念にとって代わるのか、漠然とし過ぎていてよくわからない。


例えば、「戦後的な中流文化から労働環境的にも、家族構成的にもメディア的にも離れた層が、都市部の若いリベラル層を中心に結集することが大事だと思います。圧力団体として機能するものをつくりたいんですよね。具体的にはウェブ共済のようなものを主軸に……。(p.176)」 と発言しているが、しかしそれこそ宇野が嫌いそうな、3.11以降の反原発運動やSEALDS、AEQUITASといった新しい左翼運動じゃないだろうか。


だけどゼロ年代批評界隈がやったことといえば、SEALDSをポピュリズムだと批判した口で、朝生にて橋下徹を弁護していた東浩紀や、宇野常寛といえば、家入一真の 『インターネッ党』 みたいなバカ騒ぎに喜々として賛同していたのである。


もちろん、東や宇野たちが左翼を馬鹿にするのは勝手だけど、しかし現実に対して、彼らの理論や思想が左翼に代わる批判力を持てたのかといえば疑問である。


少し言いすぎたが、ゼロ年代批評が 「ネトウヨをガス抜きするような」 処方箋を提示できたようには見えない。福嶋亮大や村上裕一、宇野常寛にせよ、ネトウヨの勢いの前で卑屈に怯え続け、そこで己の内に目覚める別の暴力性について、延々と自己言及と言い訳を並べる 「安全に痛い反省」 を繰り返すか、それをしない左翼をくさすだけで、レイシズムの本質的な問題から目を逸らすだけでなく、それを考えることすらも妨害してきたのである。


しかし、まだ本格的な衝突すら起こっていない段階で、(ネトウヨのそれは見逃し続けたくせに) リベラル側の暴力性を執拗に批判する、日本のインテリは異常だと思う。以下、youtubeの動画を貼っていくが、先進国を見渡しても路上での暴力なんてありふれたものだ。







もちろん、流血の事態になるような衝突を肯定する気はない。だがネトウヨより先に左派の暴力性を予断して牽制するだけで何も解決しようとしない、日本的なリベラル体質にはがっかりとさせられた。


これは別に東や宇野に限ったことではなく、日々はてなブコメツイッターでいっちょ噛みしているようなインテリも、自分が気に入らない左翼やリベラルを叩くためにあえてネトウヨ的なものに肩入れしている傾向があるように見える。しかしだからといって、ここ十年のネット人文系や論壇が、ネトウヨや政治の極右化に対して有効な批判力を持てたようにも思えない。


例えば、ゼロ年代批評界隈だけでなく、東浩紀やしばき隊の不祥事をあげつらって得意気になっている連中や、リフレ派界隈にもいえることである。しかしそれこそが、東の言う「動物化」であることに本人たちは気付いていないようだが。


まあ、既に成熟の域に達しつつある日本の政治的な冷笑文化を、今更まるごと入れ替えることは無理だろうから諦める他ないが。しかしポルポトが言ったように、その腐った林檎は箱ごと捨ててやりたいとは思う(皮肉です)。


追記(17/11/07) 意味が通らなかったり、明らかに文法がおかしい部分が多かったので大幅に加筆修正しました。


ネトウヨ化する日本 (角川EPUB選書)

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復興文化論 日本的創造の系譜

復興文化論 日本的創造の系譜

*1:『復興文化論』p.294

*2:ゆえに本書は、本質的な意味で他人ごとではなく、私の問題を扱っている。本書は、社会を観察しつつ、私の中のネトウヨを暴き出すために書かれている」『ネトウヨ化する日本』p.342

*3:ナショナリズムの現在』p.13-14

*4:同上 p.185-186