ギロチン

腐れポモウヨをぶっ潰す👊

物凄く安直な思考だよね

いや、別に今どきのジャンプは「少年」読者だけをターゲットにしているわけではないだろう。少年どころか青年、へたしたら中年男子読者の母数の方が多い可能性もあるけど、しかし、この少子化の時代、少年だけでは売れないから、ハイキューのように女性を取り込む作品があるわけだし、テニプリなんかも女性を意識した展開になっていったわけである。

まあ、まともに週刊少年誌を読んできたわけじゃないからわからないけど、聖闘士星矢や幽白にしたって、女性読書を想定していなかったはずがないし、セクシーコマンドマサルさんが、ほぼ同時期の(木多康昭の)幕張に対して、時代的な金字塔として残っていられるのも、ギャグ内容もさることながら、あの時代の少年向けギャグ漫画としては珍しく、男子の悪ノリ的な下ネタやセクハラネタを排した、(当時としては)最先端のお笑い感覚を持ち込んだことも大きいはずである。無論、圧倒的に売れていたから、実験的なことができたのはあるにせよ、ジャンプを「友情、努力、勝利」的な、少年観だけに結びつけて語るのは、視野が狭いと言わざるをえない。しかも「少年らしさ」とされているものが、実は女性にしか響かずに、少年には全くわからない感覚だってありうる。

籠原さんが一体何を擁護したいのか知る由もないが、けど、ステレオタイプジェンダーロールを再強化してしまうと思われるような発言をするのは、あまりにも脇が甘すぎるであろう。

別に少年誌にグラビアやエロネタがあるからって(男の)性は健全化しないよね

宇崎ちゃんの献血ポスターをきっかけに、少年誌におけるエロネタやグラビアを巡ってツイッターが沸騰しているけど、でも、エロが日本人男性の性を健全化しているかといえば、そんなことはないよね。

逆に、変な性癖を抱えたまま、大人になっても悶々としたまま恋愛コンプレックスを引きずり続けたり、もしくは、高学歴系強姦サークルで女性を喰い物にしたりとか、また痴漢に走る奴らを培養する温床になっている疑惑もある。まあ、男の性癖なんて、性の入り口のきっかけや気質などの個人差が大きいけど。

でも、エロはきらい/気持ち悪くて全く受けつけないという、オールドスクールな乙女チック・オタク男子も、まだ結構多いような気がする。だから、セクハラエロ漫画や陵辱ものを、オタク的な性の多様性としてリプレゼントさせてしまうのも違うだろう*1。それらは、あくまでもオタクのサブジャンルに過ぎないと思うから(コミケ3日目的な場とは無縁のオタク人口もかなりいるということだ)。だから、全ての男を、やりたがりのオス(だから健全)であるかのような捉え方をするのも、それはそれで男性差別ではないかと思うのである*2

だいたい、過去には上坂すみれに対するツイッターでの集団セクハラ事件などを、やらかしまくっているオタクが、生身の女性を襲うわけではないから二次元無罪だ!と喚いたところで、外部がそう簡単に信じてくれるわけないだろう。そうでなくとも、最近の花守ゆみりに対する一部声豚の心無い罵倒にしたって、日々ネットのオタクが女性へ投げかけているセクハラめいた中傷や冷笑と、オタク創作物の中で性的な対象として表象される女性像が、それぞれオタクの意識上で分断されているどころか、リンクしているのではないかと見るほうが自然だと思う。

また、精神的・肉体的な脆弱さと幼稚性を抱えたまま、一人前に女性を「犯したい」という願望を抱きがちな日本の(男性)オタク文化が、女性や外部の文化から見て、気持ち悪がられてしまうのも仕方ない気がしないでもない。ミソジニーやマチズモ的な風情は、ファッションや音楽など至るところにあるけど、しかし、そこである種の成熟を回避しようとするオタク的なマチズモが、一段と異様なものに見られてしまうことは、想像に難くないであろう。

まあ、Metoo以後的な、フェミニズムの波を押し止める術はないだろうし、それでなくとも、男が女性を性的・従属的な対象物ではなく、一人の人格として見られるようになることが、真当な成熟であろう。しかし、日本の性教育がそれをまともにやっているふうには見えない。そんな社会のなかで、いくらオタクが言い訳したところで、言い訳にすらならないんだろう。

*1:そもそも、SM的な陵辱系を好むオタクや、酒の席などで性の話題を大っぴらにすることを好むオヤジ自体が、全男性中の少数派なのではないだろうか

*2:こうやって女性の立場から男心をわかっていますとアピールすること自体、現実に存在する女性差別や不平等を覆い隠したり、また男性を一方的な視点からしか捉えてないと自ら告白している男性差別的な振る舞いであろう。 https://twitter.com/suna_kago/status/1191200919649542144

世界中のネトウヨって、やることなすことみんな同じなんだね。


トランプ支持者のアメリカ人ネトウヨ娘らしいが*1、グレタ・トゥーンベリさんを茶化しているこの動画を見ても、ネトウヨってどこの国もやることが変わらんよな。無論、環境活動を揶揄している柴田英里さんも、このネトウヨ娘と同カテゴリである。

しかし、千葉雅也さんのようなインテリが、柴田さんみたいな存在を支持しちゃっている日本の知的状況は、アメリカやヨーロッパ、その他の先進国~中進国と比べてもより深刻であろう。反出生主義みたいなくだらない思想が、現代思想誌で真面目に取り上げられちゃう日本では、本を読めばよむほどバカになる負の構造がガッチリと固まっちゃっているのである。

*1:動画の冒頭でジョージ・ソロスの肖像に礼拝しているところなんて、典型的なジョージ・ソロス陰謀論者のそれである。

いや安心できないでしょう

こしあんさん、変なこと言うなと思ったけど、仮に自民党からマンガ/アニメ絵を規制する法案が提出されたとしても、おそらく山田太郎は何もできないに違いない。

せいぜい、オタク向けのお茶濁しパフォーマンスをするぐらいがヤマであろう。その時は、表現の自由戦士たちも、いやいやで社民党共産党に陳情を入れざるをえなくなるはずだ、現実的にシミュレーションしてみても。しかし、児童保護を盾にした、(二次元絵の)児童ポルノ規制に対抗できる理論構築するのは、今どき非常に難しいであろう。

しかし、宇崎ちゃんの件と、あいちトリエンナーレの件が等価に見えてしまっている時点で、こいつら何も分かってないよな。前者は、例えば、自衛隊募集のポスターに水着を着たグラドルを出ているのはおかしいよね的な、TPOの問題(オタクはこれすら屁理屈こねて反論してくるんだろうが)であるのに対して、後者は政治的な表現が、権力によって潰されたというより深刻な問題である。

だいたい、ポルノや準ポルノまがいのものを、公共空間の中で大っぴらにするのはおかしいだろ?というのが、大雑把なフェミ側の主張であり、別に乳袋を規制しろなんて言っていないだろう。公衆に見えないオタク空間のなかでやっていろというハナシである。

それにしたって、ただのポルノを表現の自由の試金石として過剰に神聖視しているオタクって、やっぱ異常じゃない?それだったら、フェミニストよりも、未だ性器を一方的に猥雑物として規制している国家公安権力の方が、よっぽど表現の敵だと思うけどね。そこを無視して、フェミガー!とか絶叫しているオタクどもは、幼稚である。

東浩紀ってそんなに名文家だったかね?

あずまんがツイッターをやめたという割に、びっくりするぐらい周囲の反応が鈍い気もするけど、でもごく一部の人文系界隈の喪失感は半端ないようである。

note.mu

けど、あずまんって、それほど面白い文章を書いてきた人ではないっていうか、情念や魔力を宿すような物書きじゃないと思うんだけどね。塩ラーメン薄味というか、高いけど淡白で舌に味が残らない高級魚みたいなイメージがする。『観光客の哲学』にしても、序章で風呂敷を大きく広げているのに、途中でいきなり家族の問題にすり替わり、結論が拍子抜けするぐらいショボく、未完成のまま放り投げだされた本を書いちゃっているし。

動ポモにせよ、文体や文学的な面が評価されたわけではなく、もっぱら当時の泣きゲーマーに都合のいい理論武装として読まれていたんじゃないかと思う。晦渋なポストモダン理論を、オタクやレベルの低い人文系ワナビーでもわかった気にさせるように、平易で使える言葉に移植したことが、一番の成果ではないのかという気がする。

そもそも、(ミヤダイ、大塚英志世代と比べても)あずまん世代以降のサブカル人文的な書き手って層が薄いと思うし、東浩紀一人勝ち状況も、結局はあずまん以外にめぼしい書き手が存在しなかっただけじゃないだろうか。それに、saebou先生こと北村紗衣さんが売れっ子になっているのを見ても、あずまん世代とそれ以降には、明確な断絶があるような気がする。

だから、思想家、書き手として突出した才能を持っているから評価されているのではなく、あずまん以外に他がいなかったから、たまたまある世代を代表する「的」な、存在になってしまったのだと思う。実際は、あずまんと同世代~6-7つ下から、それ以降の世代も含めて、潜在的な反発は意外と大きい。

ゼロ年代批評にせよ、日本の停滞感とマッチした、あずまんの冷笑的な厭世観と、当時(今)の人文青少年たちのムードがたまたまシンクロしただけに過ぎないだろう。けど、それは、明らかにダメだったのだ。

ポストモダン自体も相対化され、現実に追い越されてしまった今や、加速主義的にさらに人間性を解体していくか、それとも実存や人間の主体性に回帰していくかで揺れているように思うし、あずまんも半ば後者の道を選びつつある気配がある。まあ、あずまんの存続基盤が、ウブで何も知らない若い読者や、ゲンロンカフェにしかないから、安倍さん("アベ")的なものに擦り寄らざるをえないのも理解できるけど。これは蛇足だけど。

でも、あずまんってそんなに名文を書いてきた人ではないよね。彼以外の存在がいなかったからにせよ、過大評価もいいところなのではと思う。

クドカンについて

正直言うと、クドカンのことはあまり好きではない。悪い意味での00年代オフビート的な、冷笑サブカルクソ野郎というイメージがまとわり付いたまま、あまちゃんもいだてんも見ていないという食わず嫌いのまま来てしまった。あと、決定的なのは、宇野常寛さんの底意地の悪い評論とのイマージュが結びついてしまっていることも大きい。

だから、まともに見たクドカン作品は、「木更津キャッツアイ」「真夜中の弥次さん喜多さん」「ゼブラーマン」「少年メリケンサック」という惨憺たる有様なんだけど、クドカンが妙にアンティファ系やアメコミ/ネトフリ系の洋画ファンにウケが良いのが気になるのである。

そこで考えられるのは、クドカンって出自的に、アイドルだけではなく、80年代ハードコアやパンクロック好きでもあり、当然、スターリンじゃがたらとかあぶらだこのような、日本的なDIYパンク魂も通過していると思うのである。

ツイッターであるアンティファが、「クドカンあまちゃんで冷笑を卒業した」見たいなことを言ってたんだけど、もしかしたら、震災~安倍政権を経て、本人の内なるパンク的な反逆性が(大衆にそれと気づかない形で)発動したのかもしれない。それが、いだてんのポリティカルな面での評価に繋がっているのかなって思う。詳しいことは、アルファ・ツイッタラーのcdb(@C4Dbeginner)さんのツイートを追ってくれればわかると思う。

まあ、その秘められた政治性のせいで、いだてんが視聴率の面で苦戦しているのかもしれないけど、でも、大衆にそれと気づかないようにしているとは言え、クドカンが政治的な "resist" をしかもNHKという公器をハッキングしてやっているのだとしたら、それはとても凄いことなんじゃないかと思う。

そういえば、たしかに、宇野常寛さんの「少年メリケンサック」評とは180度違って、あれは明らかに中年パンクロッカー讃歌だった。そういう意味で、クドカンってやっぱり腐ってもパンク魂の持ち主なのかもしれない。

そのせいで、いだてんが一部で評価されているのと裏腹に、そこと大衆的な断絶があるのかもしれないけど、でもそんなことはどうでもいいのかもれない。見てないけど、昨日やっていたNHKスペシャルが、高度成長期の日本に中指を突き立てる内容だったらしい。NHKをぶっ壊す!とかいうアホタレ政党があるらしいけど、しかし、日本でカッティング・エッジなプログラムを放送できるのは、もはやNHKしかないのもたしかだ。

だから、機会があればクドカンラソンをやってみようかなって思う。

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ジョーカー見ました

ダークナイトにおけるジョーカーが、(日本のサブカル)インテリの自我と安いナルシシズムを安心して慰撫してくれる完全無欠の悪であったとしたならば、今回のジョーカーは悪の惨めさとショボさを、冒頭からラストまで容赦なしにまざまざと畳み掛けてくる。だが、悪という存在は、限りなく凡庸されど凡庸だからこそ恐ろしいのであり、そのリアリスティックな恐怖感と絶望を抉ることに成功しているのではないかと思う。それと比較すれば、ダークナイトにおけるジョーカーとは、所詮、悪を都合よく言い訳してくれるものでしかないのだ。

正直に見て思ったことをいえば、本作は70年代を舞台にしているらしいけど、作中におけるデモや暴動シーンは、当時の新左翼やパンクのイメージというよりか、オキュパイ運動やイエローベストのような、現代的な過激派リベラル&ネトウヨ暴動っぽいイメージだったところが、微妙かなと思った。作中の暴動とジョーカーの繋がりが、意外とあっさりとしているのが少し消化不良だったと思うし。

けど、聞くところによれば、この手の映画としては日本でもお客が結構入っているらしい。みんな顔には出さないけど、この極東で、従順な家畜的な生を生きる人間たちにも、潜在的な不満と悪意が積もり積もっている、ということなのかもしれない。それなら、韓国やNHKを狙うんじゃなくて、もっと本質的な"悪の存在”を狙えよと思うけど、何なら今度のハロウィーンでモノホンの暴動を全国の繁華街で起こしてやろうじゃんと思ってみなくもない。私はもうおっさんなので、そんなエネルギーはないけど、ハロウィーンとかいう、日本人にとっては騒ぐための口実でしかないネタで、イキり通したい若者たちが自由に暴れ回ってほしいとおっさんは思っている。

だから、陰湿で悲惨なジョーカーみたいになるんじゃなくて、もっと陽気で未来に希望を抱けるカオスを求めるべきなのである。