新潮45の杉田水脈擁護特集から見る、日本の人文系の底の浅さ

新潮45杉田水脈擁護特集が炎上しているらしいけど、でも今どき文学とか思想をやっている連中なんて、少なからずレイシストだしエスノセントリズム的だから、さもありなんって感じだよね。


今どきの文系なんて、青識亜論みたいな筋金入りの差別主義者や、某ネトウヨなろう小説のアニメ化中止を「オーバーキルだ!」と嘆くような鈍い奴らが平均であろう。福嶋亮大もマッチョな文学観を語って炎上していたけど、在特会朝鮮学校襲撃を「語り口を制御すれば適切な問題提起になりうる」とか評していたバカなんだから、元からその程度なのである。


だから新潮45的なものは、別に教養人気取りの保守親父だけに限らず、今の20代~30代ぐらいの若い文系サブカルにも言えることなんじゃないだろうかね。東浩紀だって、リベラルの逆張りネトウヨの容認を煽ってきた経緯があるし、その姿勢は多くのサブカルクソ野郎共に影響を与えたはずだ。こういうポストモダンネトウヨに甘い姿勢が、杉田水脈のようなクズをのさばらせる空気感に加担したことは、想像に難くない。だから、東から影響を受けた世代が、某ネトウヨなろう小説がアニメ化中止されたぐらいで、オーバーキルだと嘆くのも無理はないのだ。まあ、東はネトウヨの大ボスであり、ゲンロン会員なんて一人の例外もなくレイシスト予備軍であろう。


だけど、このサブカル人文系的なバカっぽさは、ポストモダン界隈外にも広がっているんだから救いようがない。大学で言語哲学を研究している、永井均ファンが「ヘイトは思想として認める」とか言っているのを見かけたし、エビデンス厨のような連中も、胡散臭いリフレ派やキクマコと近かったりするんだから信用に値するものではない。


そういえば、既に消されているけど、唐沢俊一が、社会派くんでイジメ自殺者やその被害者に「死ね」と連呼している記事を見かけたことがある。だから、新潮45に限らず、出版界は元からそんな体質だったのかもしれない。保守論壇のゲスさなんて、小林よしのり大月隆寛が全盛期の頃から分かっていた話だ。そのような露悪的な体制を、冷笑的に持て囃していたのが、サブカル系の言論人や学者だったわけで、突然、新潮45的なものが浮き彫りになったわけではない。それはずっと前から存在して、連綿と受け継がれてきたものである。15年ぐらい前なら、村崎百郎唐沢俊一大月隆寛あたりは、おそらく新潮45逆張り的に擁護していたはずだ。そして、その擁護に妙に納得するサブカル社会学者という地獄絵図が繰り広げられたに違いない。


なので今回の新潮45の件は、日本のビジネス言論における傍流どころか、むしろ主流である。弱者や人権を露悪的に踏みにじる言論がカジュアルに消費されるだけでなく、認識として本人の思考に定着していくのである。それは、何も論壇系だけでなく、東浩紀に影響を受けたサブカル評論系の中にもうっすらとしたレイシズムやヘイトが拡散しているんじゃないかね? 直接的にネトウヨを肯定してなくても、ネトウヨはリベラルのせいみたいな話をずっと広めていたんだから、東のファンや信者が、ネトウヨに同情的な姿勢になったとしても変ではないし、ネットを観察してもそんな感じに見える。


まあだから、新潮45の件は特異点であるにせよ、日本のネトウヨ教養人やサブカル人文系の体質における氷山の一角であるのだ。今どき、本を熱心に読み漁っている奴ほどネトウヨの可能性があると疑った方がいい。腐れスノッブ根性の冷笑趣味主義者を量産するという意味で、教養主義はゴミなのである。

性表現そのものじゃなくて、内容が問題なんじゃないの?

海外でもエロマンガやエロ本が目につくところに売っている事実は織り込み済みで、日本における性表現の問題は、そこじゃなくて女性を虐待しているかのような内容が問題になっていることに、反表現規制派の方々は気付いてないんじゃないかと思う。

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日本の男性向け、特にオタク向けのアダルトジャンルは陵辱ものやSMが多く、だいたい女性の人格や尊厳を痛めつけることで性的欲望を満たすという内容である。もちろん、全体的にそれらが主流ってわけでもないのだろうけど、しかし、オタクにおける陵辱系の人気は固い。


だから、それらを消費している層が、いくら言い訳を重ねたとしても、オタクの間でミソジニー的な女性蔑視が公然とまかり通っていると思われても仕方ない。呉智英が昔、平岡正明の弟子筋の、左派系論客のSM趣味に対して「SMは女性差別だと」と喝破した話は有名である。そして現在でも、日本のアダルト市場で流通している陵辱・SMものの内容を考えたら、未だにそれを否定することは難しいだろう。しかも、ここ2~3年でフェミニズム意識は急激に高まった。その環境の中で、オタク的なセックスファンタジーを維持し続けるのは、なかなか難しいと思う。


まあ、そうでなくても、バッキー事件とかあったし、日本のAVが女優に無茶振りするものが多いことは、自明だと思うんだけどね。昔、女優の肛門に生きた鰻を入れる陵辱ものを見てドン引きしたことがある。海外でもハードSMものはあるにせよ、日本の場合はロールプレイ的に見えなくて、明らかに虐待にしか見えないところがキツいんだろう。それは実写だけでなく、二次元でも同じことである。まとめサイトなんて、か弱い女子を性奴隷に屈服させる的なエロマンガ広告が大半だし、日本全体が女性の身体をそういう目で見ていると思われても仕方ない。


個人的なことを言えば、エロを法律で規制するのは反対だし、人がどのような妄想を抱こうが自由であると思う。だけど、ポルノも公の場で公開されるものである以上、フェミニズム的な批判にさらされるのは当然だし、時代の変化によってタブーとなる表現も出てくるわけで、エロが聖域であると限らない。だから、反表現規制派も、一本調子でエロ規制は弾圧だと叫び続けてもしょうがない。問われているのは、女性の人権であって、昔みたいな公序良俗の問題ではない。まあ、積年の恨みで燻っているオタクにそんなこと言っても分かってくれなさそうだけど。

この世の果てで恋を唄う少女 YU-NO(リメイク版)

ラスト編まで進めた辺りで一旦放置して、そこから一気にクリアしました。


う~ん、正直こちらが期待していたほどのものではなかった。ネタ自体も、オリジナル版が発売されてから今日まで、散々引用されまくって見慣れたものだし、そこで改めて新鮮味のようなものは感じなかった。女性キャラに対する扱いも、ここ2~3年で激変した、現在のフェミニズム意識の水準からしたら、どうしても古臭くて残虐に見えてしまう。あと、やはり、90年代的な自己憐憫やオカルト設定なども、あまり肌に合うものじゃない。ちなみに、J-RPGにおいて、YU-NOの手法をさらに突き詰めたのが、ゼノギアスとペルソナ2罪&罰だよね(他にもありそうだけど)。まあ、この2作を含めて、ある種の悲劇性を駆動させるやり口は好きじゃないから、同じくオカルト的でも、他作品に比べてヒロインが自立的だったり、悲劇性ではなく個々のキャラたちの友情と結びつきに帰結させていく、FF8の方がFF7より好きなんだけど。最後に伏線を回収していくカタルシスも、個人的にはEVER17の方が遥かに上だった。まあ、そこに関しては、EVER17の方が力技で畳み掛ける強引さがあるから、褒めていいのかよくわからないけど。


だから、たしかに大傑作であることは認めるけど、しかし、古典的な超越SFと90年代的な終末オカルティズムの範疇にあるという意味では、そこに限界はあるのかなと思った。だが、ある意味での、00年代オタク文化における、ループ物の原点というだけでなく、異世界物のルーツでもあることを考えると、その先見性には驚愕させられる。東浩紀の「YU-NOは奇跡のゲームである。そして起源のゲームである。」というコメントも、あながち大げさじゃない(それ以前にまで遡れたとしても)。ただし、その崇高さまでは、継承されなかったが。


あと、梅本竜による音楽は文句の付け所がないぐらい素晴らしい。リメイク版では、オリジナルとアレンジが選択できるんだけど、当時のFM音源だけで構成されたオリジナルでも、電子音楽として十分に完成されている。そして、メランコリーな陶酔感も、タンジェリン・ドリームボーズ・オブ・カナダなんかよりも上であると思う。むしろ、シナリオ以上に梅本の音楽の方が、時代を超越する(しかも当時の限られた機材で作曲していたとは思えないほどに!)と、評するのは言い過ぎだろうか。なので、自分にとってのYU-NOは、菅野ひろゆきというより梅本竜といった感じです、ハイ。

自分も”差別”される側だという自覚が足りないよね

青識亜論の過去のツイート集みたいなまとめトゥギャッターを見たけど、自分は一方的に差別する側だという甘えた認識が垣間見られる。f:id:teleo:20180915091922p:plain:w540

そういえば、こんなツイートを見かけた。
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話は外れるけど、日本で白人しかいないファッション誌が成立するのも、日本人は差別される対象ではないという変な認識(?)があるからだ。しかし、実際は第二次世界大戦中における日系人の強制収容はあったし、今でも西欧諸国にいけば否応無しに差別に遭遇することになる。事実、テキサスで日本出身の従業員が差別される事件があった。


まあ、青識が依拠している理論なんて、結局は西欧白人優越的な世界観の域を出るものではないという気もするけど、もし自分が差別される側に立たされたらどうするつもりなのかね? 普段は強者ぶっているけど、いざそうなった時には、急に弱者の側としての憐れみを乞うんだろうけど、都合がよすぎるわな。もちろん、青識だけの問題ではなく、実質、加害者としての経験だけに酔ってきた近代以降の日本の歴史や、それを前提として組み立てられてきた、日本の思想や言論の責任も大きいわけだけど。


だが、日本人は差別されないなんて錯覚でしかないし、無自覚に西欧的なものの下位に従属されているような感じが気持ち悪いというか、日本の言論が先立ってそれを前提にしちゃっているのは不味いんじゃねぇの? 抽象的な話になり過ぎたが、青識みたいな不良債権を生み出した、日本の思想や哲学は死ねばいいと本気で思っているので、今すぐにでも自殺してくれ。

藤田直哉さんはそこまで変なことを言っていない。

例によって、反原発クラスタ・アンチの科学真理教主義者と、市場競争ファンダメンタリストネオリベ神秘主義者が、揚げ足取り的な難癖をぶつけてきているようだが、しかし、以下の藤田氏の発言は、そこまで噛み付くものではないだろう。

togetter.com

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別に全体を追わなくても、始めの数ツイートだけ見れば終了する話だ。北海道のような広大でインフラが脆弱な地域では、災害などで通常のインフラが使えなくなった場合の、万が一の備えが必要だってだけの話である。その知恵のありかを、アイヌの伝統に求めるのも、普通の会話の範疇であり文句の付け所ではない。


たかが、その程度の話を、普段から目の敵にしている仮想敵をやり込めたいがために、くだらない難癖を付けては突撃していくアホどもが後を絶たないのは、まあ、中世ジャップ・ツイッターランドの日常っぽくて、日本における言論の不毛さを改めて感じさせてくれる。

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上記二人のツイートは、反論するのもアホらしくなるほどバカな意見だが、そもそも文脈を踏まえていないタクラミックス氏の方が百田氏よりもバカに見えるのが怖ろしい。それはいいとして、だいたいからして、再稼働基準に達してないから原発が停止しているのに、再稼働させればよかったってのも、アホアホ過ぎて話にならない。原発を冷却するのにも電力が必要で、地震以外にも台風や大吹雪で非常用電源が使えなくなりメルトダウンする可能性も排除できないだろう。現にハリケーンが接近中のアメリカは、前もって原発を停止している。


しかし、その程度の想像力すら働かない連中が、言論や思想、ポストモダンとか文学を齧ってスノッブぶっているんだからどうしようもない。だから、何も理系だけでなく、文系も絶望的なバカ共によって、言論が支配されているような感がある。まあ、左派っぽいものは、とりあえず噛み付いて半笑いでバカにしておけばいい的な、日本の激安言論状況と、ある種の敗北感を受け入れたくない、亜インテリ共の矮小なプライドが、他人だけでなく自分までもを抑圧しているのであろう。

※参考↓
隅田金属日誌(墨田金属日誌) 泊原発の封印を決めた政府を攻撃しないフシギ

リアルナンパアカデミーと宮台真司以後の人文思想

リアルナンパアカデミーの塾長が逮捕されたらしい。まあ、塾生が次々と捕まっていたので、時間の問題であったのだろう。

www.jiji.com

しかし、こうした「男はチャラくなければならない」という思想は、おそらく95年以後に出てきたものである気がする。例えば、90年代の宮台真司は、勉強しか知らない受験エリートに不良の知恵を伝授することで、大人の階梯へと導く役割を演じていたと思う。社会的地位や知性ではなく、女と1000人セックスした方が男の価値が上がるとかそんな時代である。


90年代宮台真司の総括は保留しておくが、しかし、宮台思想を拗らせた結果、スーパーフリーの和田サンや、リアルナンパアカデミーみたいな、高学歴系の強姦サークルが発生したり、非モテ非コミュみたいな、アイデンティティ身分闘争を招いてしまったのではないかと思う。またシロクマ先生的な脱オタクノイローゼや千葉雅也なんかも、宮台真司の系譜にあるといえる。


動ポモ以後は、オタク批評が強化されていったので、宮台的な文化系不良路線は後退したと思うけど、その余波は悪い形で隅々に影響したと思う。宇野常寛的な大学サークル主義って、ほぼ宮台のエピゴーネンと言い切れるし、コミュニケーション格差みたいな擬似問題がでっち上げられて、多くの人の精神を蝕んだことはたしかなはずだ。しかし、こういう言論に近づけば近づくほど恋愛から遠ざかり、精神を病んでいくんだから碌なものではない。どっちにせよ、コミュ障の治療のための言説にはならない。


更科修一郎による「零落したマチズモ」という名言があるが、家でシコるしかないキモオタと、脱オタガリ勉してレイプサークルに走るのとは、どちらがそれに該当するんだろうかね。でも、シロクマ先生や宇野常寛にせよ、外面はフェミっぽいけど、実際は男性中心主義的なホモソーシャリストだよね。その(宮台を経由した)ホモソーシャリスティックな磁場って、人文評論界隈ではかなり強く、イジメていい奴と媚びるべき対象を選別する、ゼロ年代思想的なステルス忖度主義もそういう体質の一部であると思う。また、柴田英里や高崎線某駅名の某さんのような、エロに寛容なヲタ女的なキャラ付けにも影響している気がする。まあ、どっちにせよ、常に群れていないと何も出来ない輩のことである。


しかし、metoo以後、あらゆるセックスファンタジーは、社会における女性性を搾取することで成り立っているんじゃないかという原罪を、男性の側に抱かせるには十分なインパクトがあったんじゃないかと感じる。少なくとも、女千人斬り的な、95年以後のチャラ男思想も過去の遺物であろう。だから宮台思想の限界は、援交女子高生がメンヘラ化したことにあったのではなく、既に当時からミソジニー的なマチズモの域を出ない保守性にあったということである。だが、思想や評論って、未だにホモソーシャリズムが強い場である感じがするし、宮台の影響もまだ尾を引いているように見えるが。

じゃあ、彼らが一度でも他者の主張を尊重したことがあるんだろうか?

ある種の文系サブカルの方々は、「敵と味方に隔てるな!」という使い古された常套句が大好きである。いっけん、正論に見えてしまうけど、しかしこのクリシェを多様する奴ほど、自分と異なる意見の人間に対して攻撃的だったり、先殴りして相手を嘲笑する言動を取るケースが多い感じがする。


まあ、本当に敵と味方を隔てたくないのであれば、ネトウヨやネトサヨとも、極論の持ち主とも、友好関係を結ぶべきだと思うのであるが、そういう者は、積極的に嗤いものにしてよいという、実質的な敵認定が認められることが多いようだ。それこそ、相手が「左翼っぽければ」、また「陰キャ」っぽければ、茶化して弄ってもよいという倫理基準が一部に存在するようである。


だから、己のコミュニケーション能力不足を認識できずに噴き上がっているキモオタは、半笑いで弄ってもよいのであり、また、ひと目で左翼っぽいとわかる奴は、それだけで聞く耳をもたずに羽交い締めにしてもいいってわけなのである。だが、残念なことに、そういう矛盾した態度が、物分りのよさを自称するインテリの中で広くみられる。


こういう矛盾に陥らないためにも、普段から己の立ち位置を明確に打ち出しておくべきだと思うのだが、自分を基準にして敵にも味方にも片足を突っ込んでおこうとするあまり、中途半端になりがちな人はいる。そういう人ほど、その瞬間に吹く風で、どちらにも乗っかろうとする、天の邪鬼タイプじゃないかと見受けられるけど。まあ、単刀直入に言えば、スネ夫ってことである。しかし、現実でも、スネ夫ほど大物を気取りたがるけど、実際は小心者の卑しい奴で、本人からもその卑屈な雰囲気を完全には払拭できずにどこかで滲み出てしまうものだ。しかし、いくら敵を作らなかろうと味方を作ろうとも、自ずと立ち位置は決まっていくのであり、己は誰の味方でも敵でもないと嘘はつけても、その狭まれた位置を飛び越えるのは簡単でなくなる。


まあ、敵と味方を隔てるナー!とか言っている奴に限り、自分より弱い相手にだけケンカを仕掛けてオレは強いんだぞ~!!って、無知で知的コンプレックスに塗れた相手にアピールしまくり信者を獲得していく感じが、ツイッター全般で見られるけどね。でも、クリボーやノコノコを倒しまくって1UPは稼ぎまくるけど、クッパまでは辿り着こうとしないという。けど、今どきのオタク系インテリ知識人なんて、みんなそんな感じだよな。絶対に勝ち目のない強者は相手にしないけど、相対的な弱者を相手に「表現のジユウガー」「サイキョウノジャクシャガー」とかタコ殴りして、言論で勝った気になっているという。まあ、ネトウヨですらアンチ安倍化しているこのご時勢に、弱者へのマウンティングと、強者への忖度しか出来ないのが、クラスタ無関係に日本のオタク系論客全般の傾向であるとみえる。